「こどもプロジェクト」から生まれた恋
2006年 12月 03日
今日12月3日、東たち「BE VOLUNTEER」のメンバーは、ボロブドゥール遺跡に近い村へ出かけている。彼らのメンバーの一人、ゴソン君のメデたい結婚式に出席するために。
今回の「こどもプロジェクト」で大活躍してくれたのが、東率いる「BE VOLUNTEER」のメンバーであることは周知のこと。彼らの多くは東のように映像関係の仕事についている。我々の活動の初期には、テントの子供たちをビデオ撮影し、金曜と土曜の夜にはその村で子供たちの活動を上映したり、ちょうどワールドカップの時期には、彼らの映写機器を持ち込み、被災地に巨大スクリーンを設置して、避難民たちの娯楽を作ったりもした。
その中で、裏方として動いていた一人がゴソン君。
私は彼の本名を知らない。「ゴソン」とはインドネシア語で「焦げた」って意味、なんでかってこのゴソン君、もともと褐色の肌がフツーなインドネシアにあっても、褐色越して焦げたに近い肌の色をしているから。
これ日本だったらもう、いじめとしか思えないんだけど、でも別に東たちもいじめじゃなくてフツーにこう呼んでる。被災地でも村人から
「お~い、ゴソンさ~ん!」
と親しみこめて呼ばれていたから、本人もまんざらでもなさそうだ。
【愛の芽生えた第3テントの設置日。まだ彼女と出会うことも知らなかったのね・・・】
バンブー幼稚園プロジェクトが始まる前は、教育機関が機能するまでの間、「こどもテント」でお絵描きや遠足などのプログラムを作っていたのを、皆さんは覚えていらっしゃるだろうか。中でも第3テントを設置したボンドワル村は、青年団もとってもヤル気で、さらに当時は大学から課外実習生ってのが被災地に入り、いろんな分野で救援活動を手伝ったりしてる時期に重なっていたので、非常に活発な活動を展開することができた。
ゴソン君はこの第3テントのコーディネーターとして、毎日、ジョグジャの街から約1時間の道のりをバイクで通ってくれていた。今考えてみたら、そこまでしても、毎日行くだけ魅力的なものが、このテントにはあったってことなんだな・・・
【6月27日、ボンドワル村の第3テントは始動した】
当時、このテントの子供たちのために様々なプログラムを作り、企画書を私に提出して必要予算を申請していたのは、課外実習でこの村に入っていたニサだった。当時は「こどもプロジェクト」で第1から第4テントまでをコントロールしていたので、私がボンドワル村のテントに出かけるのはほんの1週間に1度程度だったし、どっちかというと私は若者たちの人間関係とか興味ないので、まったく知らなかったのだけれど、実はゴソン君、このニサちゃんが最初っからお気に入りで、それで毎日一生懸命このテントに通ってくれてたらしい。
その後、村の復興と小学校の授業開始とともに、第3テントは使用されなくなり、プログラムも終了し、ニサちゃんも大学の授業に戻った。けど、ゴソン君はその後もガンバッて(ややしつこくも)彼女とコンタクトを取り続け、ついには彼女のハートを射止めることができたのだ。焦げててもガールフレンドはできる!おめでとう、ゴソン君!!!
東たちが心配なのは、ゴソン君はかつて女性と付き合ったことがないこと、クリスチャンだったのに、彼女と添いたいために改宗してイスラム教徒になったこと、つきあい始めてから結婚までが非常に短期間(約2ヶ月)なこと。ま~、確かに、人づてにこの話を聞いてても、
「おいおい、ゴソン君よ、大丈夫か?まだ熱病の中にいるんじゃないんか?」
って思わないでもないけど、しかしメデタイ話なんだから、まっいっか。
【8月19日、第3テントのすべてのプログラムが終了、村人とのお別れ会で挨拶するBE VOLUNTEERのメンバー。ゴソン君だけ顔が暗いのは、個人的な理由だったのか?】
私はゴソン君と直接そんなに親しいわけでもないし、結婚式の会場となる娘の村ってのが結構遠いこともあり、祝いの席には出席しなかった。そしてさっき、仕事の速い東から、結婚式の写真がメールで送られてきた。それがコレ!


ここまで容量小さくした写真でも、おそらくゴソン君がなぜに「焦げ男」と呼ばれるか、わかるんじゃないだろうか。
とまれ、よくやったゴソン君!私としては、450人の日本のメンバーの愛をデリバリーしていた「愛の届け人」ゴソン君が、自らの愛もこの活動中に勝ち取ったことが嬉しい。被災の中にも生まれる愛あり。「こどもプロジェクト」メンバーの皆さんも、日本から彼らを祝福してあげてほしい。
今回の「こどもプロジェクト」で大活躍してくれたのが、東率いる「BE VOLUNTEER」のメンバーであることは周知のこと。彼らの多くは東のように映像関係の仕事についている。我々の活動の初期には、テントの子供たちをビデオ撮影し、金曜と土曜の夜にはその村で子供たちの活動を上映したり、ちょうどワールドカップの時期には、彼らの映写機器を持ち込み、被災地に巨大スクリーンを設置して、避難民たちの娯楽を作ったりもした。
その中で、裏方として動いていた一人がゴソン君。私は彼の本名を知らない。「ゴソン」とはインドネシア語で「焦げた」って意味、なんでかってこのゴソン君、もともと褐色の肌がフツーなインドネシアにあっても、褐色越して焦げたに近い肌の色をしているから。
これ日本だったらもう、いじめとしか思えないんだけど、でも別に東たちもいじめじゃなくてフツーにこう呼んでる。被災地でも村人から
「お~い、ゴソンさ~ん!」
と親しみこめて呼ばれていたから、本人もまんざらでもなさそうだ。
【愛の芽生えた第3テントの設置日。まだ彼女と出会うことも知らなかったのね・・・】
バンブー幼稚園プロジェクトが始まる前は、教育機関が機能するまでの間、「こどもテント」でお絵描きや遠足などのプログラムを作っていたのを、皆さんは覚えていらっしゃるだろうか。中でも第3テントを設置したボンドワル村は、青年団もとってもヤル気で、さらに当時は大学から課外実習生ってのが被災地に入り、いろんな分野で救援活動を手伝ったりしてる時期に重なっていたので、非常に活発な活動を展開することができた。
ゴソン君はこの第3テントのコーディネーターとして、毎日、ジョグジャの街から約1時間の道のりをバイクで通ってくれていた。今考えてみたら、そこまでしても、毎日行くだけ魅力的なものが、このテントにはあったってことなんだな・・・【6月27日、ボンドワル村の第3テントは始動した】
当時、このテントの子供たちのために様々なプログラムを作り、企画書を私に提出して必要予算を申請していたのは、課外実習でこの村に入っていたニサだった。当時は「こどもプロジェクト」で第1から第4テントまでをコントロールしていたので、私がボンドワル村のテントに出かけるのはほんの1週間に1度程度だったし、どっちかというと私は若者たちの人間関係とか興味ないので、まったく知らなかったのだけれど、実はゴソン君、このニサちゃんが最初っからお気に入りで、それで毎日一生懸命このテントに通ってくれてたらしい。
その後、村の復興と小学校の授業開始とともに、第3テントは使用されなくなり、プログラムも終了し、ニサちゃんも大学の授業に戻った。けど、ゴソン君はその後もガンバッて(ややしつこくも)彼女とコンタクトを取り続け、ついには彼女のハートを射止めることができたのだ。焦げててもガールフレンドはできる!おめでとう、ゴソン君!!!
東たちが心配なのは、ゴソン君はかつて女性と付き合ったことがないこと、クリスチャンだったのに、彼女と添いたいために改宗してイスラム教徒になったこと、つきあい始めてから結婚までが非常に短期間(約2ヶ月)なこと。ま~、確かに、人づてにこの話を聞いてても、「おいおい、ゴソン君よ、大丈夫か?まだ熱病の中にいるんじゃないんか?」
って思わないでもないけど、しかしメデタイ話なんだから、まっいっか。
【8月19日、第3テントのすべてのプログラムが終了、村人とのお別れ会で挨拶するBE VOLUNTEERのメンバー。ゴソン君だけ顔が暗いのは、個人的な理由だったのか?】
私はゴソン君と直接そんなに親しいわけでもないし、結婚式の会場となる娘の村ってのが結構遠いこともあり、祝いの席には出席しなかった。そしてさっき、仕事の速い東から、結婚式の写真がメールで送られてきた。それがコレ!


ここまで容量小さくした写真でも、おそらくゴソン君がなぜに「焦げ男」と呼ばれるか、わかるんじゃないだろうか。
とまれ、よくやったゴソン君!私としては、450人の日本のメンバーの愛をデリバリーしていた「愛の届け人」ゴソン君が、自らの愛もこの活動中に勝ち取ったことが嬉しい。被災の中にも生まれる愛あり。「こどもプロジェクト」メンバーの皆さんも、日本から彼らを祝福してあげてほしい。
by midoriart
| 2006-12-03 22:50
| Jawa Earthquake

