Culture & Art Report from INDONESIA


by midoriart

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 3ヶ月ほど前に突如思い立って「スギトジルシ」なるTシャツブランドをジョグジャで立ち上げた。タイミングよくジョグジャの私大でジャパンフェスティバルがあったので、まずは試しにそこに出店したら、思いの外いい反応。その後、作品の制作のためバリへ行ったときに、バリ在住の古い友、T子さんにシャツを見せたらいたく気に入ってくれて、彼女がバリでPRしてくれることになった。そんなこんなで帰国前だってのに、「スギトジルシ」Tシャツの増産で忙しかった。

 それもひと段落ついた。後は27日の帰国を待つのみ。
 ずっと延期になってた「スギトジルシ」の打ち上げを、最初からずっと手伝ってくれてる相方モトとすることになった。ジョグジャから東に30分ほど走った場所にある世界遺産、プランバナンが打ち上げ場所。

b0090333_18311172.jpg  といっても、実は私が好きなのはこの世界遺産ではなくて、この南2キロほどに位置しているラトゥボコ。個人的にはこっちのほうがずっとパワーを感じる場。ここのサンセットが大好きなので、打ち上げのビールは是非この場でという私の希望を、まだ一度もラトゥボコに行ったことのないモトはのんでくれた。
(Photo by Moto)


 何度も来てるし、今日はとっとと呑みたい気分だったので、私は遺跡を巡ってくるモトをカフェで待つことにして、お先に冷たい泡の出る飲み物をいただく。サンセットを待ちながら、ジョグジャの街をラトゥボコの丘から見下ろす。ジョグジャを出た汽車が、ソロに向かって走っていくのが見える。遠くにプランバナン遺跡のシルエットが見える。残念ながらどよんと垂れた雲の多い空に、アディスチプト空港を離陸したばかりの飛行機が飛ぶ。そして西から少しずつオレンジ色の光がさし始めると、どこからともなくイスラムのコーランが聞こえてきた。


 翌朝は5時起きで、プランバナン遺跡周辺に点在するチャンディ巡り。前から気になっていたチャンディ・プラオサン。その昔はかなり立派な水路が巡らされていたらしい。はよから遺跡にくる珍しい二人組を、守り人が親切に案内してくれた。インドネシアにはこういう古い立派な遺跡がたくさんあるのに、その重要さをわからん輩が、罰当たりにも仏像の頭や手を盗んでいくらしい。それを買ってミュージアムに入れるよその国のコレクターもコレクターだけど。
 中は暗くてとても撮影できなかったけれど、守り人がゴツい鍵を開けて入れてくれたチャンディの中には今もひっそりと6体の仏像が座しておられた。合掌。


b0090333_18314814.jpg  本堂の横のチャンディは2006年の地震で破損し、いまだに修復されないままだった。あと少しらしいけど、費用が足りなかったり、ジャワ暦の神聖な日を選んでしか仕事ができないために、ずっとこんならしい。被災したお堂には大変失礼だけど、この足場が私には逆にかなりかっこよく映った。滑り台みたいなんまでついてたり、巨大ナットで留められてたり。その昔、『クーロンズゲート』というPSのゲームにはまって3日3晩ほとんど眠らずに遊んだことがあったけれど、まるでクーロンズ。


b0090333_18322843.jpg  このチャンディ・プラオサンのコンプレックスからさらに奥へと歩いていくと、もっと保存状態の悪いチャンディ・プラオサン・キドゥルがあった。昔々その昔、この地に栄えたマジャパイト王国の人たちは、何を思ってここまでたくさんの建物を作ったんだろう。どうやって石切った?運んだ?積んだ?すごすぎるよなぁ・・・。


 古の風に吹かれ、ひととき日常から逃れた「スギトジルシ」の打ち上げもここまでで終了。ジョグジャの街へ戻れば、そこには日常が待っていた。Tシャツを委託していたJNM(Jogja National Museum)のミュージアムショップへ向かう。実はここの販売委託はショップの担当者が思い切りいい加減でちゃんと商品管理をしてくれないので、今回すべて引き上げることにしたのだった。
 ちょうど2日前にOPENした、国立芸術院ジョグジャカルタ校(Institut Seni Indonesia)OB展をついでに見ることに。オープニングに来ようと思ってたんだけど、ちゃんと作品を見たい展覧会のときは、私は開会後に見ることにしている。人に会いたいんだったらオープニング。


b0090333_18325349.jpg  ここは今年の4月、国際交流基金主催で日本からたくさんのアーティストがやってきて展覧会を開いたメイン会場。私はたまたま現地コーディネートで関わったので、JNMはすごく馴染みのある場所。会場内のサイズから配線状態までよ~くわかっている。
 『KITA!!!』展では、淺井裕介くんがダイナミックな泥の壁画を作り上げたJNMの2階。淺井君、心配しなくてもいいよ~、写真右奥の壁面、実はこれベニア板を貼って、白塗装してあるの。中にはちゃんと淺井君の壁画が残されてます~。


b0090333_18331833.jpg  そして『KITA!!!』展に参加したアーティストならみんな知ってる、特に西尾さん、SONTONの川西君なんかは何度も往復した3階の倉庫、そこがなんと、展示会場になっちゃってます~。あの時は3階といえば、みんなの画材と日本から送った梱包の箱、そして芸大旧校舎にいついてる幽霊しかいなかったのに、こんなにキレイになっちゃって。びっくり。
 今回の芸大展、これ国際的なアーティストもかなり参加してるので、あらためて詳細UPします。今日のところはここまでで・・・
by midoriart | 2008-12-22 18:28 | Yogyakarta
 昨晩BUTOHの公演を見て大感動した私は、今晩の公演が楽しみで仕方なかった。昨晩、パーティの席で見たオーラに囲まれたお方、大野慶人氏が踊る。さらにインドネシアからの代表者は、これまた有名なソロの踊り手ムギヨノ(Mugiyono Kasido)。


b0090333_354455.jpg  第1幕、ムギヨノの『Lengser』(滑降)。インドネシアから海外へ行く踊りといったら、たいていがバリのレゴンダンサー、ケチャ集団だったりする中、彼は異色。コンテンポラリーなダンスで海外公演の多い人なのだ。普通にしてたら若ハゲのおじさん(といって私より2歳年下、ごめんなさい)なのに、いざ舞台に立って動き出したらスゴかった。この人が見られたのも大収穫。


b0090333_36162.jpg  そしてついに第2幕、大野慶人の『Emptiness』が始まる。暗くなった舞台に現れた彼の姿に会場もシーンと静まる。いったい、何なのこの人?このオーラ。人間じゃないくらいの空気、存在感。たいして動いてるわけでもないのに、目が離せない。恐ろしすぎ。


b0090333_362849.jpg  最初の衣装に変え、後半では上半身裸に頭飾りを添えたコスチュームで登場。上品なクラッシックの曲に合わせ、限界までにゆっくりと動く。「舞う」というより、身体が語っている感じ。1938年、昭和13年生まれといったら、うちの母親と変わらない。この年齢でこの体型ですか、動きですか。長年積み重ねてきた修行(といっていいのか?)が70歳の肉体をここまでに維持できるのか。


 感動の公演が終わり、舞台に白幕が降りると、そこに流れ始めたのは大野一雄のモノクロ写真の数々。病室らしき場のベッドに横たわる大野一雄の横に付き添う慶人氏、100年以上を生き抜き、表現をしてきた皺くちゃの手のアップ、大野一雄氏そっくりに作られた人形が彼の横に置かれている様子が様々な角度から撮影されている。

b0090333_364959.jpg そんな映像が流れ終えると、白幕の後ろから、昨晩と同じ黒のスーツ姿の慶人氏が登場。さっきまで白幕に映されていたあの人形をつれている。


  私はこの人形の由縁を知らない。でもまるで一雄氏の分身であるような人形に見えた。それが今、慶人氏の手によって動き出した。じっと人形を見つめながら、一動一動を正確に確認するように、慶人氏が息を吹き込んでていく。その時、人形は生きていた。知らないうちに涙がこぼれていた。親子の共演そのものに見えた。

b0090333_37117.jpg 「現代音楽、ノイズに合わせて意味不明な動きをする」みたいなイメージのある(私が思ってるだけ?)BUTOHの大家は今、しゃきっとスーツに身を包み、あの有名な『Can’t Stop Faling in Love』の、それもレゲエバージョンに合わせ、軽快に舞台を動き回り、今度は会場に降りてきたのだ。一番前のド真ん中に座っていた私の目の前を、一雄氏そっくりの人形と慶人氏が通っていっただけで、また泣けてくる。そうして2人(単なる人形とは言えない魂が入っちゃってたの、本当に)は後ろの方の席まで歩いていき、観客の子供に近づいていった。一雄氏の魂が今、ジョグジャまで来てるんだな~と素直に思った。このスゴ過ぎる親子のオーラに圧されて、今日はずっと私の涙腺が緩んでしまったままでいる。

 この夜は感動し過ぎて、会場を出る頃にはアイメイクがすっかり流れ落ちていた。そして翌日、つまりは最終日に、室伏鴻とバリのガムラングループのコラボレーションを見た後、ついに憧れの大野慶人氏と話すことができた!
 舞台で見たときには、異常なまでのオーラとありえないほどの存在感で、もう人間とは思えない何者かになっていた彼が、最初に見たときのスーツで目の前にいる。そしたら思ったよりも小柄な方であることがわかった。舞台での動き同様、むちゃくちゃ気品があって上品な話し方をされる。やっぱり人間離れしてる。

 私は昨晩の公演に感動したこと、もっと広く宣伝をしていれば、もっとたくさんのインドネシア人のBUTOHファンが見に来たであろうこと、今後もインドネシアに是非是非来てほしいことなどを一気に話した。さらに偶然にも、昨年私の個展を開催してくださった愛知県美術館(愛知文化センター)には、大野一雄氏の過去の公演ビデオがコレクションされていることがわかった。そしてこんな私に名刺を差し出して、
「日本に戻られるときには、遊びに来てくださいね」
とやさしく手を握ってくださった。いかん、また泣けそうになる。


b0090333_374827.jpg 運良く今回のイベントを現地でしきってたのが知り合いのTシャツ屋の社長さんだったので、このチャンスに慶人氏とのツーショットを撮ってもらった。コレは本当に大切な1枚になりそうだ。いまさらではあるけれど、BUTOHの成り立ち、生まれた頃の時代背景と当時の美術界の動きも合わせて、ちょっと勉強したい気になった。
by midoriart | 2008-12-15 23:58 | Yogyakarta
 いまや世界的に有名な「BUTOH」。最初にBUTOHなるものを見たのは、愛知芸大に入学してたの頃だったように記憶している。土方巽の公演会があって、学食前で踊っている人たちを見て、
「お~~~、これぞ芸大!!!」
と18歳の小娘だった私は感激したのだった。
 それ以来、恥ずかしながらBUTOHなるものに触れる機会はまったくなかった。そしたら先日、携帯電話にSMSが入ってきた。
「12月12~17日、THE LIFE OF BUTOH、タマンブダヤにて公演、ワークショップもあり」

 最初の2日間は忙しくて行けずにいた。そしたらまたSMS。このSMSを送ってくれてるのはジョグジャの大きなTシャツ会社の社長さん。なんでもお父さんがパフォーマンスアーティストだそうで、昔から国内外のパフォーマンス関係者のイベントには、必ずこの人が絡んでいる。Tシャツで儲けた金を、こうしたイベントの後援者になることで費やしている、非常に徳の高いお方でもある。
「今晩は公演後にささやかなパーティも用意しています。是非ご参加ください」
別に食い物につられたわけではないが、ようやく時間が空いたのもあり、3日目にしてようやくBUTOHを見に行くことができた。


b0090333_14303771.jpg 会場はうちから歩いていける距離にあるジョグジャカルタ・アート・センター(Taman Budaya Yogyakarta)の小ホール。古い洋館の映画館みたいな建物で、私が好きなジョグジャの箱のひとつだ。入ってすぐのホールでは、『土方巽と大野一雄写真展』が開かれていた。白黒で映された数々の写真、大きく引き伸ばされた大野一雄の顔にまず圧倒される。
 

b0090333_14312267.jpg BUTOHを詳しく知らなかった無学な私も、この大野一雄の顔はわかった。おそらく、タイミングよく彼の100歳の誕生記念パーティがあったときに私は帰国中で、そのニュースを見たことがあったんだろう。車椅子に乗った老翁が、ほんの少し手を動かし、頭を動かすだけなのに、そこにとんでもなく大きなオーラがあって、
「いったい、この人は何者なんだ?!」
と思ったことを鮮明に覚えている。あの人だったのか!


 今回の公演に「Kazuo Ohno」の名はない。けれど出演者に「Yoshito Ohno」とあるではないか。息子である大野慶人、この人がジョグジャに来ていたのだった。実はスゴイ人たちが今ジョグジャに来てるんじゃないの?といまさら気づいた私は、今回のイベントがあまり広く宣伝されていないことがとても残念に思え、慌てて知ってる人にSMSを送りまくった。


b0090333_125021.jpg 午後8時に始まった「Asia Tri Jogja 2008 Crossing of Contemporary and Tradition –THE LIFE OF BUTOH-」第三夜は、日本舞踊のKEIIN YOSHIMURAで始まった。公演後のパーティで説明があったけれど、今回の公演にはBUTOHの方以外にも、様々な踊りのトップを誘っているらしく、その唯一BUTOH外の参加がこの人だった。


b0090333_133085.jpg 次はジョグジャで活動しているパントマイム家、ジェメッ・スパルディが、BUTOHにインスピレーションを受けた踊りを披露。


b0090333_134893.jpg 最後は女性のBUTOH家、小林嵯峨氏の踊り。素人な私はBUTOH=男性というイメージがあったので、踊っている間はずーーーーーっと男性なんだとばかり思ってみていた。三人の公演を終え、パーティが始まり、ここで今回来イした皆さんの紹介があった。ここでさっき見てた踊りが女性によるものだとわかって本当にびっくりした。別に、小林さんが男性っぽいってことじゃないんだけど、いや~、それだけBUTOHというのは性別とかもない状態での表現だってことなんだろうか。


 ここで代表者として大野慶人氏の挨拶。
 大袈裟じゃなくて、あの、数年前にテレビで見た大野一雄から出ていたオーラ、アレと同じような何かが、この人にあった。白塗りで全裸になってるわけじゃない。黒のスーツをぴしっと着こなし、ベレーを被った普通の紳士である。だけど彼を取り巻いてる空気が尋常じゃない。
「明日の公演は絶対見る!」
 大野慶人氏の姿を見て、私は明日に向けて気合を入れた。
(つづく)
by midoriart | 2008-12-14 23:18 | Yogyakarta

b0090333_1403142.jpg 私が大好きだったお爺ちゃんの命日12月7日の翌日。
 昔は12月8日といえばジョンの命日が最初に浮かんだ。そういえば昨年の今頃は日本にいて、名古屋の音楽好きの友達と一緒にジョンの追悼ライブを見に行ってたっけ。
(写真:ジョンレノン・ミュージアムで)


b0090333_1411456.jpg 数年前から12月8日がパールハーバー奇襲攻撃の日、つまり1941年旧日本海軍機動部隊が米ハワイ州オアフ島パールハーバーを攻撃し、多くの犠牲を出した日米開戦となった日であることも思い出すようになった。第二次世界大戦をテーマにした作品を作り始めたからか、12月8日はとても気になる日になりつつある。
 

 最近、ジョグジャ在住で通訳者のIさんから一冊の本をいただいた。『太平洋戦史館』、岩手県にあるNPOの記念館の10数年の活動をまとめた本だ。太平洋戦争では多くの日本兵がインドネシア、そこからもっと東の島々まで送られた。ほぼ見殺しに近い状態で、最後には飢えで亡くなった人も多くいる。通訳者のIさんはここ数年、ビアク島に遺骨収集に来る岩淵さん(太平洋戦史館館長)をリーダーとした日本人グループに同行し、60年以上経った今もたくさんの日本兵の遺骨がインドネシアの最東端に残されていることに愕然としたという。


b0090333_1415953.jpg 昨日、祖父の命日に、『太平洋戦史館』を読んで私も驚いた。いまや戦争を知らない世代が人口の80%となる日本、でもこのインドネシアの奥地には、いまも少し掘り起こせば日本軍が使った戦車、鉄兜をかぶったままの頭蓋骨が出てくるのだ。私の半分ほどの年齢で家族から引き離され、灼熱のジャングルの中で飢えと戦い、命を絶たれた多くの若き魂が、60年もほったらかしにされているという事実。民間団体がなんとかしたくても、厚生労働省を通さなければすべてを動かさせない複雑なシステム。ひょっとしたら自分のお爺ちゃんがそんなめにあっていたのかもしれないと思うと、悔しくて涙が出た。
 多くの日本兵が餓死し、生還できたのは数パーセントだったという激戦地が私の今いるジョグジャカルタからわずか数百キロの場所にある。そんな事実を日米開戦日の前日に知ったのもなにか意味があるのだろうか。インドネシアにいる日本人として、なにかできることがあるのだろうか。


b0090333_1433426.jpg そんなことを考えている今日、インドネシアはイスラム教の祝日。「IDUL ADHA=イドゥル・アドゥハ」は「犠牲祭」、ここ一週間ほどは町のいたる場所で「犠牲」となる山羊が売られていた。金持ち層がこれをおろして貧しい人たちに配るらしい。

b0090333_145399.jpg 50年前には海外からのメッカ巡礼者は1万人もいたが、今年サウジアラビア大使館が発行した巡礼ビザは200万人。国内の100万人と合せて300万人が白衣に身を包み6日から一斉にアラファ山へ。7日夕暮れまでここで佇立して瞑想した後、巡礼に向う。インドネシアからの参加者は191,365人。6日までにすでに103人が呼吸疾患と老衰で死亡しているけど、これもイスラム教徒にしてみれば「メッカで神からお呼びがかかる」という幸せなことらしい。


 3つの記念日のうち、今年私に一番響いたのは開戦日。先日、101年を生きてこられた田中のお爺ちゃんの葬儀もあったからか、歴史の風化になぜかとても不安感がある。もっと歴史をちゃんと学びたいと切実に思う。
by midoriart | 2008-12-08 14:03 | Indonesia
 ジョグジャカルタに訃報が走った。
 21歳で貿易商社員としてインドネシアに赴任、戦時中(34歳)は兵器増強のために屑鉄種集要員としてインドネシアに渡った。敗戦後インドネシアに残留する道を選び、インドネシア女性と結婚し、ジョグジャカルタの北部カリウランに住んだ日本人男性。


b0090333_11273878.jpg 田中幸年さんは昨年100歳を迎えた。
 私はちょうど一時帰国中で参加できなかったのだけれど、ジョグジャ在住の日本人で盛大な祝賀会も開いたという。カトリック教徒の彼の家族は、今年10月20日、田中のお爺ちゃんの101歳の誕生会は、クリスマスにあわせて開こうと相談していたそうだ。
 1966年に母国を訪れたきり、日本を見たことのなかったお爺ちゃんは今年9月に念願かなって一時帰国した。そして12月4日、100年間の波乱に満ちた人生に幕を下ろした。
(写真は94歳のときのお爺ちゃん)


b0090333_11282843.jpg ジョグジャにいながら、私はついに田中のお爺ちゃんと生きてお目にかかることができなかった。せめて最期のお別れには参列したいと、今日はカリウランのお爺ちゃんのお宅へ伺った。彼がずっと守ってきたカリウランの宿泊施設前で、たくさんの家族に担がれてお爺ちゃんの棺は住み慣れた家を後にした。
(お爺ちゃんが運営していた宿、「VOGELS」)


 また一人、大事な戦争の生き証人が逝ってしまった。
 戦争はまた遠いものになっていくのだろうか。あの時代はもう誰にも振り向かれないのだろうか。私の祖父も生きていたらちょうど田中のお爺ちゃんと同い年だ。徴兵されていやいや兵隊になった。そんな話を直接聞いた私は、おそらくそういう話を聞けた最後のゼネレーションになるのだろう。かれらの語った言葉、守ってくれたからこそある今の日本、それが風化しないよう自分にできることを探したいと今日あらためて思った。
 田中のお爺ちゃん、100年間、お疲れ様でした。あなたが選んだこの地で、やすらかに眠られますよう。合掌。

※写真は(http://www.eva.hi-ho.ne.jp/yasu-ito/travel/kaliurang/index.htm)より引用
by midoriart | 2008-12-05 23:06 | Yogyakarta
 ついに行った~~~!!!ジョグジャのメイドカフェ。
 2~3年前、インドネシアの親友ササンが展覧会の仕事で日本に来たとき、秋葉原のメイドカフェに連れてってあげたのが最初。でもそのときはまだメイドカフェ大盛況の頃で(いったい最近はどうなってるんだろう?)、小さなビルの5階だか6階だかのカフェに入るのに、外の非常階段に並んだ列が結局1階までつながってる状態で、断念したのだった。
 だから今回がメイドカフェ初体験となる。一緒に行ったのはTシャツ作りの相方、舎弟でもあるモトと、近々ジョグジャで「うどん屋」を開店させる予定のMおじ様。もともとジョグジャにメイドカフェがあるという情報は、ジャカルタ在住の太君から聞いたのだが、彼も場所がどこなのか知らず、友達の多いモトに情報収集をお願いしていたところ、ようやく見つかったというわけ。「メイドカフェ、メイドカフェ」といって探してたのが間違いだった。こっちじゃ「クダイ・サクラ(桜の屋台)」って名で出てたのだった。


b0090333_1214492.jpg 店の構えはこんな感じ。お爺ちゃんが日本人なので4分の1日本人のモトがここに立ってると、まるでインドネシアのオタクって感じだ。安上がりだけどそれなりに和風にできてる。

 入ったら出てきた出てきた、メイド!ちゃんと
「いらっしゃいませ~」
という。でも「ご主人様」とは言ってくれなかった。
 すごいのがメニューの量。ラーメン、丼もの、焼き飯、焼きそば、かつ定食関係(イスラムなので、もちろんトンカツはない。すべて鶏のカツ)、さらにサンドイッチまである。麺にはうるさいMおじ様は迷わず醤油ラーメン。私は牛丼。モトは鶏の焼き飯。気になるものがありすぎるので、もう1品冷やし中華も頼んですべてをシェアすることにした。


b0090333_1223843.jpg まずはラーメン。
 ちょっと前にカリウランのラーメン屋に行ったけど(「カリウランのラーメン屋」参照)、あそこで出てきたものよりはずっと「ラーメン」。麺がかなり短いのと、太すぎるのはおいといて、味としてはちゃんとラーメンの麺って感じ。盛り付け方も食欲をそそられる。味にはかなりウルサイMおじ様が美味いって言うんだから、信じていい。


b0090333_1242013.jpg 私が頼んだのは牛丼。ちょっと味が薄いんでないの?と思ってケチャップ・アシン(インドネシアの醤油)を頼んだら、ボトルじゃなくて皿に注がれてきた。Mおじ様が早速チェックをいれ、これがケチャップ・アシンじゃなくてKIKKOMANだってことが判明。ちゃんと日本の味を出すために「醤油」を使ってたんだ。エライっ!


b0090333_1251445.jpg 「TOKYO ICE CREAM」って名が気になって、モトとシェアしたのは「小倉アイス」、だったら「NAGOYA ICE」でしょ、ネーミングは。


 ここまでのメニューが出せるなんてどういうこと?
 気になってオーナーを読んだら、まだうら若き女性が出てきて流暢な日本語でしゃべる。
「私、ジャカルタの友達に聞いて来たんですよ。なんでも、日本人男性のブログで、メイドカフェがあるってことが出てたみたいです」
と私たちが来た理由を話すと、さばさばと
「ア~ソレ、ワタシのムカシのカレですが、もうわかれました。でもアノひと、イイヒトで、いまもサポートしてくれます」
と身の上を語ってくれた。彼女はジョグジャで一番優秀なUGM(ガジャマダ大学)出身で、我々在住日本人が良く知ってる日本人の日本語の先生、故早川氏の教え子でもあった。自分で日本料理を研究して、ここまでのメニューを作り出したそうだ。


b0090333_1254929.jpg 研究熱心ではあるが、アキバのメイドたちがどうやって写真を撮るのかはしらなかった。私がササンを案内してアキバの駅で降りたときに見たメイドたちは、オタクと写真撮影するときに必ず手が「猫手」になっていた。せっかくなので今日いた2人のメイドに「猫手」を伝授して、一緒に記念撮影~。猫よりも、婆ちゃんの肩叩きしてるようなポーズになっちゃったか・・・。
 話のネタにも、さらに日本のメニューを楽しむにも、まぁまぁなスポットではある。
by midoriart | 2008-12-02 23:57 | Yogyakarta