Culture & Art Report from INDONESIA


by midoriart

<   2006年 05月 ( 9 )   > この月の画像一覧

 今朝はやくから「救援パック参加」のメールが入る。ありがたい。昨日の時点でわかっていたうちの母親からの2パックが、朝になったら「3パック分振り込んだから」とメール。さらに反応の速かった大学の同級生、森旬子ファミリーからの2パック。まず第1便はこれで出発することにした。今日のデリバリーを終えてメールチェックをして驚き!どんどん救援パックのメンバーが増えているではないか!ビックリするやら嬉しいやら、疲れもあるので突然泣けてきた。責任も重くなるけど、廣田に託してくださった貴重なお気持ち、かならずや末端の人々に届けます!(メンバーリストは今日の報告の後に記載)

 で今日のお仕事の報告~。まずは買出し。一番心配だったのは、被災者が欲しがっているものが手にはいるかどうかだった。街の北はずれにできた大型スーパーマーケットにまだかなり品物があるとの情報を得、そこへ向かう。今日の5パック分で購入したものは、
1)テント用シート 50m(5mに切って10枚にした)
2)ロープ 5キロ(でっかい巻きで2つ)
3)マットレス 50枚(5ミリ厚のキャンピングマット1.2x2m)
4)ブランケット 30枚
以上はとにかく品切れが怖かったので買えるだけを購入。
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 ここからは今日の5パック用
1)タオル 24枚
2)トイレットペーパー 12巻
3)パンパースM48個入 2個
4)パンパースL40個入 2個
5)ウェットティッシュ4詰替
6)バケツ2個
7)大型洗濯おけ 2個
8)ミロ(元気な子供の飲料)4箱
9)コーンビーフ4缶
10)ボディコロン(お風呂に入れないでいる女性たちが体臭を気にしていると聞いていたので)6ボトル
11)ココア味の粉ミルク 4箱
12)トマト、にんにく、にんじんなどの野菜類
13)焼き飯の素(米の配給はあってもおかずがないので、せめて焼き飯になるように) 24袋

 あとは薬局で、
14)働く父ちゃんのためのビタミンC錠剤 60粒
15)赤ん坊用粉ミルク 2缶
16)ビックスベポラッブ(小)60個
を購入。以上が救援パック第1便(廣田和子&森旬子ファミリー号)の内容。

 昨日の記事でリストアップした内容と若干変わっているけれどお許しを。なんせ探したいものがどうしても手にはいらないのだ。探し回るのに時間をかけて、毛布が届かないよりは、まずあるものをすぐに彼らの手に!というのがこの救援パックの趣旨ってことで午後一番で被災地に出発。今日は初日、さらに動いているのが私を入れて二人なので物資の調達にかなり時間がかかってしまったけれど、明日以降は今日の我々の行動に協力してくれる人もスタンバってるから安心だ。
 
 最初に訪ねたのは友人が住むジョゴナラン・キドゥル2町目。六名が亡くなっている。青年団に会い、荷物を降ろそうとすると、
「あ、ちょっと待って。昨日個人団体の配給があって食材は足りてるよ。もっと奥地に回してやって」
という。誰だって予備を持っていたいであろうこの時期に、被災者にまだ他人を思いやる気持ちが残っている。彼らの町内は99%の家屋が全壊している。「もともと僕らは何も持っていないからね」と言った彼らが、今、物資を別の人たちに分けてくれと言う。なんなんだ彼らのこの心の豊かさは。私が地震当日この町内を訪ねて気になっていた盲目の少女の家にだけマットとテントを置き、予定していた物資は別の町を探すことに。
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 次に訪ねたのはトポさんの住むトゥリルンゴ、プリヤン4町目。入院中の赤ん坊を連れて津波のデマに1キロを疾走した彼(http://midoriart.exblog.jp/d2006-05-29)の町内ではまだ届かない物資があると聞いていた。米だけ支給されるのでおかずがまったくないとも。テントやマットの不足はどこでも当然なので聞く必要はない。ブランケットを何枚も車から降ろすのを見ていたオバチャンたちが囁いた。
「わぁ~!よかったねー。今晩はようやくあったまって寝られるよ…」
南国で寒いって何?と思ってはいけない。ろくなテントもなく、真っ暗闇で雨にうたれながら湿った夜の空気の中で一晩過ごしてみたことがあるだろうか。明け方の寒さは南国だって冷える。ちゃんとした食事もしていない彼らにとってはなお凍みるだろう。オバチャンたちの笑顔を見て、本当に正しい場所に物が届いたとほっとした。
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 で、次は一緒に動いている友人のもと仕事仲間の職人が暮らしているバングンハルジョ、ドゥルウォ2町目。彼の町内は悪徳町内会長のいる場所。すべての救援物資が町内会長経由で入り、約40世帯ある町内で配給品をもらえるのは町内会長と血縁関係のある家族のみ。そうでない6世帯にはいっさい配給品をくれないというからヒドイ。水戸黄門とか大岡越前がいたら絶対最初にお裁きだぞ、ジジぃ!乳飲み子を抱えた新妻は地震のショックでろくに乳もでない。配給品の粉ミルクを一缶でいいから欲しいというのに、
「全部の配給品が揃ったら分配する」
なんて言い訳して、お前の家族はもうその粉ミルク使ってんじゃんか!
そんな状況を見ていたので、今回はこのいびられ6世帯に絞って救援パックを送った。これも町内会長サイドのヤツらに見られるとケチつけられるらしいので、
「私たちは彼の遠い親戚ですから、個人的に足りないものを持ってきました」
って顔して荷物を家に運んだ。
 このゴッつい顔した兄ちゃんの赤んぼ、今日からちゃんとミルク呑めるぞ、よかったよかった。
しかし、こんな悪徳会長の住む町内はいくらでもあるらしい。今後はできるだけそうした町内、大きな団体からの物資が届いていない町内を探してみなさんのパックをデリバリーしていこうと思う。
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 さて、本日最後に訪ねたのはペレレッのウォノクロモ6町目。このペレレッ村というのが今回の地震で最も被害の大きかった場所。一部は道路が狭すぎてなかなか奥まで入れないでいる。町内ひとつがまるごと全壊してすっかり見晴らしよくなってしまった6町目は、上記の悪徳町内会長とは違い、一つの町内が全部血縁。非難テントの並び方や作り方もなぜかとてもアットホームで悲惨さがない(ように見える)。けれど二名の方が家屋の下敷きにで亡くなっている。ここにもテントがまだ不足していたので、今日のデリバリーから残っていた3点セット(シートとロープ、ブランケット)をここで献上。
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 ってことで、第1回の和ちゃん便と旬子ファミリー便、無事にお届けいたしました~。しめて5パックです。ってか、今日はあまりパックにこだわらず、現地の人に聞いてそこで必要なものを臨機応変に渡していった感じですが、我々の活動の基本は、「いりような物がすぐ届く」ってことなので、了解願いたい。なんせ二人で動くので限界もあるし。でも、明日以降は今日学んだ経験など生かしてもっとスムーズにいけるでしょう。
 
 さてここで救援パック賛同メンバーの発表~!5月31日ジャワ時間の午後10時に入金が確認された人のみを発表させていただくので、メールで振込んだ旨お知らせくださった方も、UFJ銀行のネット上でまだ入金通知のない件は、おそらく明日以降の発表ということになります。では、振込確認順に:
伊藤さよ子ちゃん(愛知)、Pak Sさん(バリ在住)、オガワカズヒトさん、森旬子ファミリー(名古屋)、Pimper’s Paradise(美容院)経営してるうちのお姉ちゃんとアシスタントの米倉&やっさん(名古屋)、匿名希望の私のバリ時代からの大事な友人、オカダマミコさん、うちの母(名古屋)、住野順子さん、池内園代さん(カナダ・大阪)、ナガヤマ太君(ジャカルタ)、セキグチイワオさん、鈴木民たんとその仲間(名古屋)、前田直美さん。
以上、今日入金を確認いたしました。ありがとうございました!!!
で、気になる合計はここまでで・・・・・

 なんと、306,000円!ってことはすでに30パックはあるっ!上記のメンバーには、実は私がまったく面識もなにもない方が数人いらっしゃる。見ず知らずの私に善意を託すってのは、随分勇気のいることだと思う。まず、その方々には心から感謝。もちろん、私の古くからの友たちも、いつもいつも支えてくれて、本当に本当に感謝。励ましのメールには本気で泣かされてます。そんな言葉の数々によって動かされてます、今は。
 あ、それと、今回の救援パックに参加くださってる皆様、お一人お一人にちゃんとお礼のメールを返信している時間が今しばらくなさそうです。失礼をお許しくださいませ。皆さんへの感謝の気持ちは、今は行動で示すしかありません。毎日更新する活動記録が皆様への感謝の気持ちだと思っててくださいませ。
 さてさて、今日うちの母便と旬子ファミリー便はすでに届けられたので、残りは25パック。今日の5パックだけでも丸一日仕事だったので、25パックは明日全部配達できませーん!先にお断りしておきます、ゴメンなさい。でもできるだけ早く物資を揃えてデリバリーしますので、お待ちください、上記の皆様!明日のデリバリー報告もどうぞお楽しみに。
by midoriart | 2006-05-31 23:59 | Jawa Earthquake
 朝から被災地を回り、夜はジョグジャ日本人会の会合に出席していたので、帰宅は午後11時を回っていた。今日は眠い。朝の7時から国際電話、名古屋のFM放送局から突然の電話で、生放送でインタビューしたいという。最近の若い者は口の聞き方も知らんヤツが多くて、今朝の電話の娘もそうだった。さらにこっちは毎夜余震にビビらされて気持ちよく寝られたことがないってのに、朝から起こすなっての。自分がどこの放送局の誰で、何が用で電話してきたのかすらもちゃんと説明できない。半キレの私の対応に恐れをなした娘は別の担当者とかわった。今度は結構丁寧。話を聞けば朝の生放送で現地の様子を話してほしいとのこと。
 いまこうして毎日ブログを更新しているのも、数少ない現地の日本人として、一般の報道では伝わらない部分までを知って欲しいという気持ちから。ラジオでこちらのことを説明するというのは、私の使命だ!くらいに思っているので、寝ぼけながらも引き受けた。それにしても。被災地にくる報道陣よ、被災地の日本人に電話してくる日本のメディアよ、もっと愛をもって動こうよ、高飛車はいけない。

 ところで話は昨晩にさかのぼる。電話は国際電話、以前ジョグジャで美大生をしていた日本人女性Mさんが、私の安否を気遣って連絡してくれたのだった。彼女は私に言う。
「私にとってはジョグジャは知らない町ではありません。今、知人の何人かが困っているのに、日本から何もしてあげることができません。どうしたらいいのでしょう」
「そうですねー。日本の信用できる団体がやってる義援金とかどうなのかな?」
「いや、みどりさん、私もインドネシアのことはわかりますけど、そういうところを通して送ったお金は、なかなか本当に困っている人の手まで届いていないじゃないですか・・・」
 インドネシアに限ったことではないかもしれないが、ここではそれ当たり前。ずっと前の米不足で日本が米を救援物資で送った時だって、腹すかせたことすらない官僚たちが古米を自分たちの親類で分けて食っちゃったってことがあった。さらにしばらくたってからは街のスーパーで「日本米」として売られてもいた。一体、海外からの救援物資にどうして値がつくの?店で売られるの?インドネシアはそういう国だ。だから彼女も、どうしたらジョグジャの被災者のためになることができるのか、きっと日本でイライラしながら考えているのだろう。
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「もしも。もしもですよ、ミドリさんが大変じゃなかったら…」
あ、何かお願い事されるな・・・
「日本の口座に私が振り込んだお金をそちらで出してもらって、それで物資に換えて被災地へ届けていただくことって・・・可能でしょうか・・・」
さすがに面倒極まりないお願いなので、彼女もかなり気が引ける様子。

 確かにそれってかなり面倒くさい。でも、ジョグジャに縁のあった彼女が今、何かをしないではいられないって気持ちもよくわかる。地震発生以降、この私の安否を気遣って連絡くださった方は80名余。彼らのほとんどが
「わたしに何ができることがあったら、いつでもお知らせください」
と言葉をかけてくださっている。誰だって、何かできることがないか考えてくれている。
 私は彼女の半泣き状態の声と、その想いに動かされ、結局日本の銀行口座番号を伝えていた。タイミングよくその後に実家の母から電話があったので、事の流れを話すと
「よし。私も乗せて!一緒に物資買ってよ、私もお金送るから」
と言う。わかりましたよ、あなた方の気持ちは私が預かります。そして確実に困っている人に届けます。
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 昨晩の電話から、こんな展開になったのだった。早速今朝は被災地巡り。震源地に近く、交通の便が悪い地域へインドネシア人の友人と入って行き、現段階の救援物資の配給状況をたずねて歩いた。最大の被災地バントゥルの救援隊集合場所にはすでにたくさんの軍用機、トラックが集まり、救援物資を届けるため動いているけれど、実際にはなかなか末端まで品が届いていないのが今の状況。
 被災がひどく、交通路がふさがれているならまだわかるけれど、町内会長まで物資が渡っているにも関わらず、会長が自分の親類縁者をエコひいきして、血縁でない家族には何も分け与えていないという例が、今日私が聞いただけでも何町内もあった。赤ちゃんがいるのに、地震のショックで母親はお乳が出ない。だから粉ミルクはどうしてもほしい。国の救援物資には粉ミルクも含まれているのに、私の知人の家族にはミルク一缶さえ配給されていなかった。誰にも届いていないからわかるけれど、町内会長の勝手で、まったく何も受け取れないってのは許しがたい。
 日本の友人、母から預かった大事な義援金をいかに有効に使うか、今日はそれだけを考えて動いた。まったく救援物資の届いていない地域というのは、地震二日目に車で行ってみたが、途中で軍隊に止められた。こちらには私のような一民間人が入ることはできない。どこまで公平な立場で物資を運べるかはわからないけれど、最低の条件として「本当に救助の必要な人たちに、物資を届ける」こと。
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 今日一日被災地を町内単位で訪問し、足りないという物資を聞いてみた。町内の被災状況、町内としてのまとまりがあるかないか(向こう三軒両隣が機能しているか)、一町内の家族数が多いか少ないかによっても、必要としている物資はそれぞれに違うけれど、リストにすると、
1)米(またはインスタント麺)
2)テント(仮住まいとしての)
3)毛布(毎晩かなり冷え込む)
4)灯油(料理のため、ランプのため)
5)生理用品
これらは緊急に必要なものとして、どこの町内でも挙がった物資だ。まずはこれらを必要な人に届けたい…。

 人様から預かる大切な義援金なので、これをすぐ有効的に使おうと思うと私だけでは動けないので、ここ数日被災地巡りを一緒にしている友人と、まさに最悪な被災地に住みながら難を免れた一人が一緒に動いてくれることになった。非常に小さな小さな活動だけれど、確実に困っている人へ、できるだけ速く届けることを第一目的にしたい。
 今日被災地を回りながら聞いていたラジオで
「今朝、バントゥルで少女が亡くなりました。死因は寒さと飢えのため」
と流れた。赤道直下のこの島で、少女が寒さで命を失う状況が今ここにある・・・。
 これを聞いたとき、私たちの活動はたとえ小さくとも、今日動くことで一人の少女の生命を救うことができるかもしれないと思った。小さいことでも必ず意味がある。誰に物資を配るか迷っているくらいなら、とにかく目の前の人に一枚の毛布を渡す。それが今、一番大事なこと。
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 我々の活動は小さい。町内単位で物資を運ぶ。
 物資の内容と量を三人で相談し、1町内で80万ルピア(約1万円)という救援パックを作ることにした。つまり、私のブログを読んだ方、どこに義援金を送るのが有効で確実なのか悩んでいる方がいて、この私を信用してくださるならば、私が受け入れ先になる。1万円になった時点で救援パック一式を購入してすぐに被災地の町内へ運ぶ、という方法だ。
 私は過去にボランティアをしたこともない。こうした状況下でどうした方法で動くのが最善なのかも知らない。けれど地震発生から今まで毎日現地にいて、「今やらなけらば間に合わなくなること」が多いのがよくわかる。だから今動きたい。今晩毛布を着て寝られる子供が一人でも増えれば、我々のやったことには必ず意味がある。
 明日はまず、第一弾で2パック分を購入、今日調べてきた町内に物資を運ぶ。運んだ先ではどいつが悪代官ならぬ悪町内会長かわからないので、本当に物資のない人に手渡しする。もちろん、この方法がベストではないかもしれない。でも今は方法を机上で考えている時間はない。まず動きたい。
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 このブログを見た方で、この活動に興味をもたれた方は、ぜひ参加してほしい。何も一人に1パック分寄付して欲しいというのではない。Aさんから1000円、Bさんから2000円、そしてそれが1万円になったとき、一つの町内に1パックの物資を送れる。そういう形でしばらく続けていこうと思う。義援金の状況はもちろんこのブログで随時報告し、救援1パックがどの町内に運ばれたのかなどもすべて写真と一緒にこの中で報告していく。
 おっと、この1パックの内容をまだお知らせしていなかった。1万円があれば、
1)テント(トラックの荷にかぶせる青いビニールシート 4x6m 2枚)
2)マットレス(キャンプ用の薄いスポンジ 20m)
3)米 10キロ
4)毛布(10枚)
5)ビタミン薬(60粒)
6)缶詰(いわし、コーンビーフなど 数缶)
7)生理用品
という1パックができるのだ。今後の長いテント生活を考えたら、これだけでも足りないことはわかる。けれど私たちはまず今必要なものを、救助されるべきなのに救援の手の延びていない人に届けたいと思う。


参加してくださった方には、このブログ上でどこに物資が届けられたかまでを正確に報告します。

 ってことで、なんか大変な活動始めてしまったんだけど、もう引けないしなー。
 までも、こんなときくらい、少しは人の役にたっておこうかな。
 明日は10時から物資調達。午後には困ってる人に米も届けられるだろう。
by midoriart | 2006-05-30 23:57 | Jawa Earthquake

被災地の友たち

 
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今日も友人と二人で、まだ安否の確認が取れない友人を訪ねることにしていた。家を出ると、隣のおじさんが
「あんたんとこの屋根瓦、危ないよー」
と教えてくれた。見たら三枚が落ちる寸前。気づかずに車庫を開けていたら、私の頭直撃も充分あり得る位置。一緒に出かける友人を迎えに行き、最初に瓦を正しい位置に直してもらった。
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 今日訪ねた友人は、もっとも被害の大きかった地域の人。いまだに誰も連絡が取れていない。ここへ向かう途中で小さな村病院があった。病室だけでは怪我人を受け入れられず、駐車場にテントを張っていた。昨日の豪雨の中でも、彼らはここにいたのだろうかと思うと、怪我以外の二次的疾病疾患が心配になる。今回の地震以降、ジョグジャの大小すべての病院がこうした状態にある。亡くなった方4千600余人の中で、現在も身元確認できない人がたくさんいる。地震からこっち三晩とも雷雨だ。夜の湿気、昼間の暑さ、遺体はいつまでこのままの状態なのだろうか。

 友人の村の近くに、陶作品を焼くのに窯を借りたことのある、陶の村カソンガンがある。村一帯がテラコッタ(素焼き)を制作している。道路の両側に延々と続くテラコッタの店が、すべて崩壊、商品はこっぱ微塵に割れて散乱していた。もう、こうなるとどこから手をつけていいかもわからないだろう。それでもショールームからなんとか生き延びた陶製品を運び出す人の姿もあった。さすが商売人、うたれ強い。
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そしてようやく友人の村へ。近づくにつれ被害の大きさに驚く。トポさん、大丈夫だろうか?村の七割が崩壊している状態の中、彼の家を見つけた。奥さんが出てきて言う。
「調子悪くてね、中で寝てます」
 もともと腰の悪い彼は、青白い顔で10ヶ月になる赤ちゃんとマットに横たわっていた。地震当時のことを彼が話してくれた。
「この赤ん坊が入院してて、家族で病院にいたんだ。二階の病室がグラグラ揺れたんで、点滴してた赤ん坊の注射も引っこ抜いて、そのまま走って外に出たよ。もう必死。嫁さんは上の子かついで階段駆け下りてたよ。だって、病室のエアコンやらガラスの棚やらが倒れてくるしね。ようやく外まで降りたと思ったらさ、今度はどこからともなく『ツナミだぁーーーーーっ!ツナミが来るぞーーーー!』って叫び声がしてきたからさ、もう大変だよ、パニック。俺腰悪いってのにさー、ガキ抱えて、嫁さんせかして走った走った。気づいたら1キロくらい全速力で走ってたよ」

 こうした人が何人もいたのだろう。でも彼らを無知だと笑うことはできない。地震の発生時、朝から曇り空で、この地域には小雨が降りだしていたのだ。それをツナミの水しぶきだと思ったって、誰を責めることもできないだろう。体験したことのないものが襲ってきたら、何を見ても「それだ!」と思うのはなにもバカだからじゃない。私は彼の話を聞いていて、自分もそこにいたら、パニくらずに落ち着いていられたかわからないと思った。

 その後彼は村に戻り、半壊した我が家を見る。地震から三日目の今日、疲れが出て起きられないのは当然のことかもしれない。誰も一度も連絡が取れなかったトポさん、やはり今日訪ねてみてよかった。とりあえず無事であったこと、子供たちが元気でいたこと、嫁さんも明るい人でシャキシャキ動いている様子を見てほっとした。トポさんの村になると、本当に田舎も田舎もいいとこなので、私くらいの様相の者が行くと目立つ。オマケにカメラを持っててカシャカシャやってるから気になって仕方ないらしい。頭に怪我したオジちゃんから、炊き出しの準備に忙しいお姉ちゃんまでが
「ここから向こう行くと、全壊した家あるよ。見ておいで」
「こっち来てみなさい。この家がこの村で一番ひどいんだよー」
なんて教えてくれる。なんか、被災者さんたち、明るいぞ。
 そこへ自慢気なおじさん登場、
「うち見てごらんよ、中だよ中」
と家に招かれた。その家ってのがこれ
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そしてその中がこれ。
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 地震発生から今まで、ジョグジャのいろいろな地域を見てきて、家が残っているのを見てほっとしたけれど、実は外見こうであっても、内側の損傷がヒドイものもたくさんあるのだ!この家を見せられてわかった。だからさっと通ったら、被害の少なそうに見えた地域の人たちでも、もう家の中で生活することができず、テント生活をしていたのだ。そうだったのかぁーーー・・・
 不謹慎かもしれないけれど、こんなふうにギリギリで家の形が残るくらいなら、全壊してくれたほうが楽だろうな。このまま使えるわけないのだから、結局は全部を壊して立て直すわけで、だったら天災で全部壊れてしまった方が、ゼロからやり直せていい。喩えがおかしいかもしれないけれど、脱臼より骨折の方が直りが早いっていうみたいに、この家も全壊してた方が、中途半端に残った家を壊す手間がなくていいように思った。とにかく、こうした家が今、ジョグジャ市内で769件、被害の一番ひどいバントゥル県で7,054件、他の地域で1万8千余件ある。いったいこれがすべて使える状態になるまでに、どれだけの日数かかるのだろう。私には予想すら立たない。

 この後、一緒に回っていた友人の勤めている工芸社の倉庫に寄った。すぐ近くの広場がバントゥル県の赤十字と国軍のレスキュー隊詰め所になっていた。被災地の村人はビニールシートを引っ張って簡易屋根にしただけのみすぼらしい場所にいるのだけれど、彼らのテントは立派立派。この地域の人たちに炊き出しをしているようで、迷彩色着たGIジョー刈りのごっつい兄ちゃんたちがゆで卵の殻をむいていた。なんか・・・。やるべきことが違うような気もするんだけど、あんたたちそれでいいのか?
 地震発生から二日間、被災地へ救援物資を運んでいて、今日ようやく休み時間をもらったという隊員の一人と話した。
「米を被災地に運んでいたんだけど。いやー、道路が狭いしね、目的地の前で、別の村の人たちが俺たちにもよこせって奪っていこうとするんだよ。そうなると、抑えるのも難しくて、困ったもんだよ」
 もともとインドネシアだから、絶対に仕事は遅い。それはもう確実、誰もが知っている。でも、今回はそれに加えて交通の便、段取りの悪さ、天候の悪さなども重なっている。せめてこの夜の雨だけでも、なんとかなればいいのに・・・。
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 家に帰る前に、芸大を通ってみた。あまりマジメではなかったけど、とりあえず私の母校でもあるインドネシア国立芸術大学のキャンパス。見た目にはとりあえず建造物はあった。でも亀裂だらけで、おそらく中はトポさんの村で見た家のようなことになっているのだろう。使える状態ではない。そこから裏庭へ抜けたところに友人の借家がある。そこを通って驚いた。
 ない!
 彼の家がない!
 瓦礫の山に立っているのはまさしく彼、アルヤだった。こっちを見て手を振っている。すぐ車を止めて彼のもとへ走る。目の下が腫れて内出血をしている。家はまるで形をとどめていない。
「寝てたらグラグラ~だろ?弟はさっと外まで飛び出したんだけど、俺は柱の下でうずくまってたんだよ。で、弟を呼ぶんだけど、ガラガラ上から物は落ちてくるし、抜け出そうとしたときに顔に当たってこのとおり」
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版画科にいた彼とは一緒にバンドをしたこともあり、たまにこの家に遊びに来た。家の中を知っているから余計にこの変わり果てた様子に驚いた。今までにもっと大きな被害を受けた家も見てきたけれど、今回は本当に近い人の家なだけに、初めて鳥肌が立った。しかし、弟が一緒でよかったよ、アルヤ。普段は一人暮らしの彼、たまたまこのときは西ジャワのバンドンから弟が遊びにきていたのだ。もしも一人でいたら柱の下にうずくまった状態のまま、本当に全壊した建物の下敷きになっていたかもしれない。
 瓦礫の山に我々がいたので、芸大の顔見知りが数人集まってきた(彼の家はまさに芸大の裏の道に面しているので、芸大生にとってのメインストリートになっている)。ここでみんなで情報交換した結果、今の時点で私の母校の学生で今回の地震の犠牲になったのは四名。みな建物の下敷きになっている。話がどんどん身近になり、今日は地震からこっち、初めて背筋がぞっとしたり、ブルっ・・・と身体が震える思いがした。

 今日までに、余震は600回を越した。地震に慣れている、地震についての基礎知識もある、と自負していた私も、やっぱり怖いよ、ここまで揺れると。小学校の時も、確か中学でも、防災用の頭巾になったものを持ってたなぁ。それが座布団にもなってて、いざ天災!ってなったらかぶれるタイプのもの。ママ製でみんな持ってたような気がするんだけど。あれは私の中学と高校が私立だったからか?しかし、地震国ニッポン、あれはいいアイデアだと思う。もう今では私は非難用具一式を必ずベッドサイドに置いて寝るようにした。こういうのは今だけじゃなくて、ちゃんと続けないといけないんだけど。
 しかし、ここの人の性格ってのは、日本人とはまた違うからなー。「備えあれば憂いなし」は日本人で、「備えてなくても憂わない」のがインドネシア人なのかも。これはいい意味でも悪い意味でも。そうそう、今日トポさんの村を訪ねたとき、狭い道を車で通るときに、被災者のオバチャンが集まって座り込んでいるところを通過した。とろとろ走りながら窓を開けて
「すみません・・・お邪魔します(通らせてください)」
って言ったら、
「いえいえ、こちらこそすみませんねー、家もなくって」
 へ?
 これ、普通の田舎のオバチャン。ジョグジャっ子の友人も驚いていたけれど、こんな大変な目にあった被災者のオバチャンが言うジョークか?ブラックユーモアというのか、自分の置かれた状況わかってないっていうのか、なんかわからないけれど、こう言い放ってしまえるオバチャンにインドネシア人気質を見るとするなら、スゴイわ、インドネシア人。この余裕。彼女のジョークには本当に頭の下がる思いだった。度胸すわってる。

 ところで話は遠い首都ジャカルタ。
 美術関係の友人たちの対応は早かった。早速金持ち画廊のオーナーたちに声をかけ、テント、食料、衣料品などを集めてすでに昨日の時点でこちらに送っている。明日からは我々ジョグジャの美術関係者でこれを配給していくことになる。こうした民間の支援の方が、おそらく確実に末端まで届くだろう。こちらの様子も今後追っていこうと思う。
 第三夜、テント生活の人々を思う。天よ、せめて冷たい雨を彼らの上に降らせてくれるなと祈って。
by midoriart | 2006-05-29 22:08 | Jawa Earthquake
 昨晩は結局午前1時くらいからまた停電。その前にちゃんと非難用具一式をバッグに詰め、運動靴もベッドサイドに置き、すぐ逃げられる格好のままで寝た。だからなんだか寝た気がしていない。余震で二回起きた。やっぱり一度あんな大きな地震を体験すると、揺れに対する反応も違う。それでも、なんとか生きて朝を迎えることができた。外はいたって平常。よしよし。
 朝になっても電気は復旧していないし、今後の緊急のために電池もビスケットも買っておきたい。ガソリンも入れたい。そう思って比較的被害が少なかった北部を目指す。けれど今日は日曜日、被害のためなのか、日曜だからなのかわからないけれどやっぱり多くは閉店している。それでもガソリンスタンドの大きいのが営業していたのでようやく満タンにできた。これでどこへも動ける。

 北部にはほとんど地震の被害は見られなかった。2~30件に1件くらいの割りで壁面や塀が倒れているくらい。こっちは学生の街なので飲食店が開かないと、台所もない学生たちが大変だろうと心配したけれど、今日はミニマーケットや屋台が開いていた。私も食材が手に入らなければこっちで食べることができる。安心して次は震源地に近い南部に向かった。
 今回の震源地はジョグジャの海岸。うちからは約20キロ。ジョグジャカルタ市ではなく、バントゥル県という田舎で、住民のほとんどは農民。言っては悪いけれど貧しい部類の人たちだ。私が親しくしているアーティストが二人、この地域にいる。まずはその一人を訪ねた。このエリアに近づくと、あるある。ぺしゃんこになって家の形態をとどめていないものがたくさんある。慌てて彼の家を目指すと、家はちゃんと残っていた。ほっ。
 彼の町内では昨日の地震で六名が亡くなった。
「うちの裏から向こうがスゴイんだって。ミドリ、一緒に見にいくか?」
彼に連れられ、今回一番被害が多かった地域を訪ねた。その光景は想像を絶するものだったけれど、その前にこれだけの被害に遭った村の人々が、まだ私に向かって微笑んでくれることが心に痛かった。まずはその地域の様子。
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 もともとは日本軍が指導したという「むこう三件両隣」システムはインドネシアではゴトンロヨンと言われる。教えた日本ではすでに存在が消えつつあるのに、ここではまだこの町内での助け合いは生きている。被害に遭ったみんなでテントを張り、年寄り子供を休ませ、女たちは炊き出しをしていた。彼らに笑顔があったことが、私にはなによりの救いだった。この町内の友人と一緒だったために、みんな私が撮影していてもニコニコ答えてくれる。青年団長をしているという20代前半の青年が、瓦礫の家にもぐっていたので聞くと、今日から必要な家族の衣類をなんとかして取り出しているという。
「本当に大変でしたね…。貴重品などは全部中から出せたんですか?」
と聞くと、
「ははは、幸いにも僕たちには何も貴重品なんてないからね。家が壊れたって、なくなるものなんてそんなにないよ」
と笑った。
 何も持っていないから、何かを失う恐怖感もないというのか。笑いながら言った彼の言葉が心に凍みて残った。
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 今回の地震は、2004年12月のスマトラ沖地震で起こった津波同様、貧しい人たちを襲っている。失う貴重品など何も持っていない、ジョグジャの中でも低レベルの暮らしをしている人たちが、唯一の財産である住処を失った。私はここで何ができるのだろうか。大きな天災を体験して、人間の非力さを痛いほど感じた後、彼らの被害を見て一人の人間としての非力も痛感した。
 彼らのエリアでは、私がこれを書いている今、つまり災害から二日目の夜になっても、まだ電気が通っていない。さらにさっきから雷雨だ。そんな中、彼らは暗闇の小さなオンボロテントで片寄せあっている。テントといったって、日本人の我々が想像するようなテントではけしてない。単に簡単に雨風がしのげるだけのもの。そこに、なんの寝具もなしで、お年寄りたちが寝ている。寝れるわけないのに。また来るかもしれない地震に怯えて、それでもどうしようもなく、そこにいる彼ら。

 被害地で暮らしているもう一人のアーティストを訪ねた。昨日から一度も携帯電話が通じなかったので、一番心配していた一人だ。私は彼の奥さんの手料理が大好きで、よく家を訪ねる。彼の家は崩壊こそしなかったけれど、家中に亀裂があり、今度少しでも揺れたら全壊しかねない状態だった。だから村中の人が共同で近くの原っぱにテントを張っていた。ここはサトウキビ工場の近くで、テント生活者への支援として、工場のディーゼルで発電して電気を配給しているだけ環境がいい。私がお見舞いに行くと、
「おー、ミドリ!いいところに来た。ミドリの好物のパダン料理だから食べてけ」
 私がテント非難民からご飯をご馳走になってる場合ではまったくないのだけれど、これを食べる=私も彼らの仲間ということにもなる。それに、私は本当にパダン料理ファンなのだ。ここでも、被害に遭いながらも心にしっかりと余裕をもった人たちに遭い、ほっとすると同時に、自分の非力さ、余裕のなさ、いろんなことを思って反省しきりだった。なぜか結構明るい表情の避難民の皆さんと、少し恐縮しながらご飯を食べている私(一番左の隅っこ)。
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 明日はまだ連絡の取れない数人の友人の安否確認に回ろうと思っている。
by midoriart | 2006-05-28 23:13 | Jawa Earthquake

現地より地震速報

 グラグラ揺りかごのような激しい横揺れで目が覚めた。ベッド横の化粧台がもう少しで倒れるところを飛び起きて押さえ込む。二匹の犬が何事が起きたのかもわからずに吠えまくる。寝室の外からガラスの割れる音、地面の振動はまだ続いている。遠くからもがシャンガシャン音がする。午前5時54分、寝ぼけた頭でようやく危ないことに気づくけれど、だからといってどうしていいかわからない。とりあえず我が家は古くて頑丈なんだから、慌てて外へ出ることはない。

 ここまでの揺れは地震国日本にいたときにすら体験したことがないような気がする。台所、勉強部屋、スタジオ、すべてできっと大変なことになっているだろう。足を怪我しないように、底の厚いスリッパを履いて勉強部屋のドアを開けた。まだ暗いけれどさっきの揺れで電気は止まってしまった。床に散乱しているのは、CD類、そしてなんと!今回ジャカルタで手に入れたばかり、昨日のブログに更新したばかりの白猿が頭だけ残して後はこっぱ微塵になっているではないか、第一のショック。
 次にスタジオをのぞく。ラジオの横に積んであったカセットテープが飛び散った中に、いくつかの自作陶作品がやはり粉々になっていた、第二のショック。角に立ててあったキャンバスもすべて倒れている。直したいけれど電気がつかない。この前大掃除したばかりなのに、またもや掃除か・・・。

 日本ならテレビですぐに速報が入るけれど、なにせ電気はストップしている。そうだ、ノートブックPCでネットにつなげてみよう、と日本の新聞サイトをチェックするけれど、まだ何も情報は入っていない。そうしていると外はザワザワ人の声がしてきた。みんなさっきの大揺れの後で、おそるおそる出てきてその恐怖心を和らげようとしているらしい。なぜかそこで私は
「地震国の私が、みんなのようにビビってなるものか」
と気合を入れる。まだ記憶に新しいスマトラ沖地震の時もそうだったけれど、ここの人々は地震に対する知識も経験もほとんどない。こうしたことが起きると群集でパニくるから、そんなのに付き合っていたら大変なことになる。だから私はとりあえず安全そうな今の家の中でまずは様子を見ることにした。
 ガラスや陶の飛び散ったものだけは危ないので、まず掃除をし、雑巾掛けをした。気づけば至るところに犬のおしっこ。きっとこの二匹も尋常でない状況にパニくったのだろう。
だって、後でわかったけれど震度6.5だもの。M6.2だもの。かなりデカイよ、これ。
 運良くうちは昔の金持ちが作った家なので、作りがとってもしっかりしている。だから今回の被害は屋根瓦4枚、うちに来てわずか二日の白猿の置物一体、作品三点、ガラスボトル一個にとどまった。けれど裏の角の家はこのとおり(写真)。
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 こういうとき、大使館に友人がいるのはありがたい。彼女が心配して携帯電話に連絡をくれ、震源地がジョグジャから近い海中であることなど教えてくれた。その後からはニュースを聞きつけた日本の母、バリやジャカルタの友人から続々と安否を気遣う連絡がかかってきた。皆さん心配してくださるのは本当にありがたい。こんな状況にあって、「ジョグジャ=廣田」と思い出してくださる方がいるってことに、今日はなんだか幸せを感じてしまった。
が、その中の一人が
「こういう状況の時には、犯罪も起こりやすいんだから、気をつけなくちゃいけないよ。懐中電灯やラジオ、食物も用意しておきなさい」
とアドバイスをくださる。(お!ここまで書いた今も余震が…)
 
 午前7時。地震から1時間。掃除もざっと終えて、電気もつかないまま。今日はどうすっかなー…と思っていると、なにやら外が騒々しい。見るとなんと、道路いっぱいに自動車とバイクが溢れている。この風景、前に見たぞ、映画の「ゴジラ」「未知との遭遇」つい最近見たトム・クルーズの「地球大戦」だっけ、そんな感じ。みんなが血相変えて北を目指しているのだ。「何なに?!」 私は部屋の中からこの様子を見て考えた。
 あー、そうだ、みんなスマトラ沖地震を思い出して、津波を恐れて北上(ジョグジャは南部が海、北部が山)しているのだ。両側通行の道路でみんなが北へ向かって溢れているから当然渋滞、叫ぶ者、泣きそうになってる女たち、なんだかすごい状態。
 ちょっと分別ありそうな人が
「落ち着いてください!まずはじっとしていましょう!」
と、このパニくった群集を落ち着かせたために、30分ほどでこの状況はもとに戻ったけれど、いやー、あんなときにこっちも一緒になってパニくっちゃうほど危ないことはない。

 私の携帯はやむことなくショートメッセージや電話が入る。電話回線には問題なかったのだけれど、うちのファックス付電話機は、電源がないと電話すら受けられなくなるのだ。厄介なシロモノ。このまま電気が復旧しないとなると、携帯電話しか使えない、で電池が切れても充電ができない。困った…。このまま本当に夜まで電気がこなかったら?そしてみんな携帯に電話をくれて、バッテリーもなくなっちゃったら?
 電源を取らなくても使える安い電話機と、停電の夜に備えてラジオと懐中電灯用の電池が欲しい。これだけをなんとか揃えるために、思い切って自動車を車庫から出した。もちろん、カメラも持って。王宮周辺からチェックを始める。店はどこも開いていない。商売好きな中華系の店ですら閉店し、舗道にゴザを敷いた人たちで溢れている。この時点で日本からもらった電話で、1,000人以上の人が犠牲になっていると聞いていた(これを書いている今ではすでに2,500人と発表された)。
 震源である南に向けて走ると、なるほど家屋の破損がひどい。まったく形のないもの、なんとか形をとどめているけれど、もう一回揺れたら終わりといったもの、道路まで瓦礫が飛び出ていて車で通り抜けもできないものが驚くほど近いエリアでたくさんあった。やっぱり1950年のお金持ちが建てた我が家はスゴイ。それとも、王宮周辺の地盤がいいのか?
 結局電話機もバッテリーも買うことなんてとてもできず、諦めて家に戻った。もっといろんな地域を走ってチェックしたかったのだけれど、なにせガソリンスタンドが開いていない。今日ガソリンを使い果たしてしまって、後でなにか自動車を出す必要が出ても困る。 
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 この大学の校舎を撮影していたら、オッチャンが慌てて私のところへ飛んできて言った。
「ちょっと、ちょっと!あんたのいるその上の正門!横にずいぃ~っとヒビ入ってるのわかるでしょ?あと一回揺れたら崩れるんだから、下にいちゃーダメだよー」
今回の地震、我が家を中心にほんの少し見て回って思ったのは、震源に近いものが全壊というわけではなく、それぞれの地質によって、また建築物の良し悪しによっても随分と差があるようだ。中国人(金持ちだということにして)の多くいる地域ではあまり破損が見られなかったし、水田に近いエリアで貧しい農民の質素な家はほぼ形がなかった(あ~、今度はまた停電!今晩中に復旧するのか???)。
 明日は日本大使館に勤める友人がジョグジャ入りするらしい。しばらくはこのサイトでこちらの近況をお知らせしていこうと思う。
by midoriart | 2006-05-27 20:37 | Jawa Earthquake
 自分が住んでいる街でない場所での展覧会は緊張する。平面作品のように、自分の仕事場を出る時点で作品が完結しているものならいいけれど、私の場合はその場の雰囲気や空気を感じながら作り上げていく制作方法をとっているので、現場にいってみないと100%はわからない。現場に行ってみてから「あれが足りない」と思っても、知らない街ではどこに何が売ってるのかもわからないから余計に時間がかかる。ましてやジャカルタのような大都会で、ローカルマーケットにしか売ってないような品物を探そうと思うと大変だ。

 今回の作品設置途中で、私は陶磁の小さな器が欲しくなった。ちょうどこの設置の日には、ジョグジャで数年学生していた日本人の友人(最近ジャカルタに引っ越した)が手伝いに着てくれていたので、どこで買えるか相談してみると、北部に中国人の集中した地域があり、以前美味しい餃子を食べに行ったとき、周辺にたくさん店があったという。そこで私は彼にガイドを頼んで早速そのエリアに向かった。
 Glodokというエリアはジャカルタの秋葉原で、たくさんの電化製品やPC関係商品の店が出ていた。奥へ奥へと怪しい空間を通り抜けていくと、そこには香港にでも来たのかという空気の一角があり、薬局や食材、乾物を売る店が軒を並べていた。結局私の探している陶磁器には出会えなかったけれど、実は内心、この友人の話してくれた餃子が気になっていた。もう夕方だったこともあり、ついでにここで夕飯をとることに。
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 この店、その名も「王将」、店長はちょっと日本語も話せる。餃子一筋の店なので、席に付くなり「ナンコ タベル?」と聞かれる。私たちは10個ずつ注文した。
「ハイ オマタセネ、コレ ギョウザ」
と日本語で運ばれてきた餃子は家で作ってもらう餃子の味。キャベツがたくさん入ってシャキシャキ感がいい。野菜が多いからなんだかライト。タレも美味い!
 私は作品が完成していないこともすっかり忘れ、インドネシアで初めて味わう美味い餃子に舌鼓をうったのだった。
by midoriart | 2006-05-26 02:13 | Culture
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 今回のジャカルタで楽しかったのは、展覧会が始まり解放感いっぱいになっところでの一日観光だった。今までジャカルタっていったら美術展だのパスポート延長だのと、用事があって行く場所で、観光客になってフラフラ回ったことなんてなかった。ジョグジャで数年間を過ごした後、最近ジャカルタに引っ越したばかりの日本人青年を誘って一日観光の始まり。
 一番気になっていたのがスラバヤ通りという骨董街。どうせガラクタやニセモノがほとんだろうと思って行ってみると、通りには延々(本当に向こうの終わりがわからないくらいの距離。店にして数十件か?)と骨董屋が並んでいる。どこから手をつけていいかもわからない。見ていくうちに、この雑多でカオスな店並びにもわずかながら規則があるのに気づく。陶モノ、金属モノ、木彫り系、ガラス系、道具(測量計、時計、注射器、カメラなど)類、かばんなど、なーんとなく似た店がまとまっているらしい。

 猿狂いの私の目に最初に飛び込んできたのが猿の置物。普通は猿とも思わずに見過ごしそうななんとも怪しい生き物だけれど、「ラーマヤナ物語」の有名なキャラクターである白猿のハヌマンを知っていたらわかるはず。でも私にはよくあることで、なんでも勝手に猿だと思い込んでて違ってることもあるので、手にとって調べてみると、尻尾もちゃんと付いてる。しかも金。スゴい。こんな猿みたことない。足元には「made in Italy」の彫り。さらに私の気を思い切り引いたのが目。光っている!つい最近帰国して、日本の若い姉ちゃんのキラキラメイクに感動していた私にとって、このキラキラ感はなんとも魅力だし、この猿のバタくささもいい。思い切って兄ちゃんに値段を聞いてみると
「イイだろー、これ。10万ルピア(約1,250円)」
こういう品物、まったく値段なんてわからないけれど、まずは試し。思い切り値切って相手の出方を見てみようと思い、
「高過ぎ!私は3万じゃなきゃ買わない」
と高飛車に言い捨てて店を出てみた。ところが兄ちゃんは
「は?3万?ハハハ・・・」
と笑って相手にしない。そのまま店を出て歩き出しても追っかけてもこないので、
「やっぱりもう少し高かったのかねー・・・」
と友人と話しながらどんどんと別の店を見ながら歩いた。
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 この通り、なんとスゴイことに、私が数件で猿の置物などを物色したことがどんどん先の先の店にまで伝わっていて、行く店行く店で店員がなにかしらの猿を持って待っている。なんなんだこの情報伝達、異常な速さ。中には伝達ゲームで間違えた人みたいに豚の置物持ってニコニコ待ってる店員もいる。違うっての、私は猿!
 そんな猿攻めにあいながら歩いていると、なんとさっきの白猿の店員が私の横にいるではないか、ここまで来て私に
「さっきのさー、もう少し足してよ」
という。なんだやっぱりまだ交渉の余地アリか。でもこっちは強気に
「だから3万だって言ってるっしょ」
と譲らない。でも実は内心5万(約620円)ルピアまでなら買うつもりではいたのだ、私。
結局このしつこくも熱心な店員に負け、4万でキラキラの白猿購入。じっくり見てて気づいたけれど、これ見サル、言わザル、聞かザルの一人のようだ。耳押さえてるし。この陶製で三匹揃えたら最高に怪しそうでいいなー。

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 展覧会の準備が終わってほっとしたからか、この骨董通りの不思議な空気に染まってか、もう一匹サルを発見して購入。こちらは根付風の中国製。これもどうみても3匹セットの一匹。ちょっと見たことない光り目、金腹のサルと、結構当たり前なサル、また猿コレが増えてしまった。思い切り値切っても怒らない骨董通りのお兄さんたち、ジャカルタへ行くたびに、この場所はちょっとクセになるかもしれない。
by midoriart | 2006-05-25 00:39 | Culture

ビエンナーレ開幕

 思いのほか長くなった日本滞在から戻り、必死で完成させた作品をジャカルタへ送ったのが5月18日。私自身は20日にジャカルタ入りし、21~22日の一日半を作品設置に費やし、22日の夜ジャカルタ・ビエンナーレが幕を開けた。写真はオープニングの現代舞踏。この他に、有名なジャズグループ「カルカト」のピアニストによる伝統音楽とジャズをミックスさせた音楽も紹介された。結構お金をかけたオープニングだった。
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 昨年からやたらとビエンナーレが続くインドネシアだが、実はジャカルタ・ビエンナーレは一番歴史が古い。第1回は独立から10年も経たない1974年。インドネシア人としてのアイデンティティを美術からも求めようという気運の中で始まったもので、当時は「ビエンナーレ」と言わずに「絵画展」と称した。それが2年ごとに開催されるにつれ、1982年から「ジャカルタ・ビエンナーレ」と呼ばれるようになる。
 当時インドネシアはまだ政情も安定せず、この美術展は連続して開催されることはなかった。間を3年空けたり、2年おきに戻ったりしながら、1998年に第11回ビエンナーレを開催して以降、今年第12回が実現するまでにはなんと8年のブランクがある。

 今回のビエンナーレは三つのカテゴリーがある。新しいメディアを使う若手作家、歴史を作ってきた作家、インドネシアに影響を受け、与えている外国人作家。私はこの国にいるとフクロウかこうもりの気分になる。時にはジョグジャカルタの作家と扱われ、今回は外国人と扱われて3番目のカテゴリーに入れられた。ま、作品が発表できれば他人の決めたレッテルなんてどうでもいいとも思うけれど。
 ジャカルタ・ビエンナーレに招待された「外国人」作家は6名。ジャカルタ在住アメリカ人と韓国人、バリ在住イタリア人とドイツ人、ジョグジャ在住の日本人(そう私です)とマレーシア人。とにもかくにもこうして開けたジャカルタ・ビエンナーレの内容、私の作品についてはまた別の日に。
by midoriart | 2006-05-23 05:08 | Art
招待状が来たのは3月初旬だったから、インドネシアでよくある大型展覧会にしては準備のいいほうだ、このジャカルタ・ビエンナーレ。それにしても昨年夏以降、インドネシアはビエンナーレ・ラッシュで、なぜこんなにたくさんの大型展覧会が必要なのかわからない。けれど、これも一種の「村興し」だと思えば仕方ないのかもしれない。

 昨年8月から数えてみよう。まずジャカルタの外資系CP財団が商業画廊と共催した第2回CPビエンナーレ、昨年が初めてとなったバリ・ビエンナーレ、ジョグジャカルタ市主催のジョグジャカルタ・ビエンナーレ(ビエンナーレとしては古株)、バリに対抗してか、東ジャワ島の都市スラバヤ・ビエンナーレ(これも第1回)、そしてラッシュのトリとなるのがジャカルタ・ビエンナーレ。
 私はこれらラッシュの中で、バリとジャカルタで招待を受けたことになる。今回はこの準備期間に2ヶ月近くを日本で過ごしたため、ジョグジャに戻ってからが大変だった。けれど私にしては珍しく帰国前にちゃんと準備していたからなんとかなった。メインとなる陶のパーツは帰国前にすべてを完成させ、窯元へ預けてきたのでジョグジャに戻って窯元へ行ったら、2ヶ月前に仕上げたオブジェはすべて900度で焼かれて私を待っていた。
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 これがその作品一部。本当は万単位で作りたかったのだけれど、時間がなかった・・・。今回は270体まで。8月にマニラで予定の個展にはなんとしても1000体は持って行きたいと思っている。
 写真ではわかりにくいので、少し説明すると、これはほんのり赤い土でビスケット状(釉薬をつける前の状態)までに焼いてある。触るとまだざらざらして粉が指についてくる。粘土で3つのモデルを作り、それから型をおこし、陶土を型に流し込んで作ったものだ。だから微妙に3種類の形があることになる。さらに、顔は一体ずつまつ毛や唇を彫っていくのですべてが違う顔をしている。
 日本へ帰る前は、毎日毎日このオブジェと向かい合っていた。窯元からは「ペンギン」と呼ばれるこの人体、実は随分昔から私の平面作品にも出てきていた「ヒト」。今回、これを一体一体刻んでいくことが、まるで写経をしているときの心境と同じように心へ作用してくるので驚きつつも非常に心地よかった。私の中では「羅漢さん」という名のこのヒトたちは私より一足先にジャカルタに届いたらしい。私は明日の夕方にジャカルタへ発ち、作品のセッティングに入る。
 ジャカルタ・ビエンナーレ、2006年のテーマは「BEYOND -the limits and its challenges」(よくわからんなー)、タマン・イスマエル・マルズキというジャカルタの大きな芸術センター内の二つのギャラリー、国立ギャラリー、陶芸美術館、ロンタルギャラリー、チュマラ6ギャラリー、全6会場を使ったこのビエンナーレは5月23日~6月25日まで。展覧会の報告は次回に!
by midoriart | 2006-05-19 15:06 | Art